1543年の種子島への漂着は、特に鉄砲伝来という歴史上重要な出来事とともに、学校でも
習いましたね。
しかしこれは、それ以前にヨーロッパ人が日本に来なかったという証拠ではありません。
実際、昔話などの民間伝承で語られる「赤鬼」は、外見上どう見てもヨーロッパ人にしか見えず、
日本列島に漂流して生き抜いていくしかなかった彼らが、人々に怖れられ疎まれながら
隠れ住んだことを思うと、どんなに辛かったか不憫でなりません。
また、浦島太郎が語った竜宮城は、外国への漂流から生還した漁師の、誰も信じてくれなかった
おとぎ話、のようにも思えます。
主に室町時代のこうした民間伝承が単に記録に残す手段のなかった事実だとすれば、
権力者が鉄砲伝来を記録したポルトガル人の種子島漂着よりも100年以上も前に、
名も無いヨーロッパ人が度々漂着していたとしても、まったく不思議ではありませんよね?
マルコ・ポーロ(Marco Polo / 1254-1324)が中国に渡った前後、同様に多くのヨーロッパ人が
中国で活動していることからも、鎌倉・室町時代に日本への航海を試みた人物がいたとしても
おかしくないでしょう。日中間には交易航路も確立していたわけですから…。
マルコ・ポーロはヴェネツィア共和国の商人でした。
24年間の旅を記録した『東方見聞録』の中で、まだ見ぬ日本を「黄金の国・ジパング」として
記しています。
日本を初めてヨーロッパに紹介したのは、実は「イタリア人」だったんですね!
* * * * * * *
さて、話は逸れましたが、この種子島への鉄砲伝来以降、主にポルトガル人やスペイン人が
日本にやってくるようになります。世界では「大航海時代」を迎えていたのです。
日本とイタリアの関係も、ここから始まりました。
当時は統一国家ではなかったため「イタリア人」とは言えませんが、イタリア半島出身の
「イタリア人」たちも続々日本にやってきます。
彼らは主に、日本で布教活動を行ったカトリックの宣教師たちでした。
オルガンティーノ(Organtino Gnecchi Soldi / 1533-1609)
イエズス会員。ブレーシャ近郊カスト出身。
1570年来日。1576年に京都に建立した南蛮寺を拠点に過ごし、織田信長の厚遇を受け、
キリシタン大名・高山右近との親交がありました。
とても明るい人柄で、日本人に大変人気があったと伝えられています。
陽気で親しみやすい現代のイタリア人に通じるところがあるのでしょう。
後の禁教令や仲間の殉教の悲劇にも立ち会い、ドラマチックな半生すべてを日本に捧げ、
長崎で没しました。
ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano / 1539-1606)
イエズス会員。現在のアブルッツォ州キエーティ出身。
1579年来日。日本人の資質を高く評価し、各地に日本人司祭育成のための教育施設を
充実させました。またその一環として日本で初めて活版印刷を導入し、「キリシタン版」と
呼ばれる印刷物も多数刊行しています。
最大の功績は、天正少年遣欧使節をローマに送ったことでしょう。
日本とインドの間で、使節団の出発と帰国に付き添いました。
ヴァリニャーノは、狩野永徳作とされる安土城下を描いた屏風を織田信長から贈られています。
それを教皇グレゴリウス13世に献上しましたが、現在まで行方不明のまま…。
謎の多い安土城下を解明する決め手として、歴史学者たちが捜し求めているものでもあります。
また、彼の黒人従者が、織田信長に「弥助」と名づけられ召し抱えられた逸話も有名ですね。
ニッコロ(Giovanni Niccolo / 1562-1626)
イエズス会員。ナポリ出身。
1583年来日。宣教師と同時に画家でもあった彼は、西洋絵画の技術を伝えました。
非常にリアリティある、織田信長の肖像画が特に有名です。
織田信長・肖像画(ニッコロ作) |
こうした宣教師たちに導かれ、このとき日本人もヨーロッパに渡っています。
「天正少年遣欧使節」
先述のヴァリニャーノが計画し、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠ら九州のキリシタン大名が
ローマに派遣した使節のこと。日本初の遣欧使節団で、8年間の長旅になりました。
伊東マンショ、千々石ミゲルを正使、中浦ジュリアン、原マルチノを副使として、1582年長崎を
出港。インドのゴアを経てポルトガル・リスボン到着。スペイン各地を周り、イタリア半島に上陸。
イタリアでは多くの都市を訪れていることに驚きます。
まず船でリヴォルノ港に上陸し、ピサ、フィレンツェ、シエナ、ローマ、アッシジ、ロレート、イモラ、
ボローニャ、フェッラーラ、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴィチェンツァ、マントヴァ、ミラノを経て、
ジェノヴァ港からスペイン・バルセロナに渡っています。
ローマでは教皇グレゴリウス13世に謁見してローマ市民権を与えられ、続く教皇シクストゥス5世
の戴冠式にも出席。他の都市でも大きな歓迎を受けたといいます。
「慶長遣欧使節」
仙台藩主・伊達政宗が、家臣・支倉常長を派遣した使節のこと。
スペイン人のフランシスコ会宣教師、ルイス・ソテロが付き添いました。
1613年、石巻の月ノ浦を出港。中央アメリカを経由してスペインに到着。
1615年、ローマで教皇パウルス5世に謁見しています。
支倉常長が上陸したローマの外港・チヴィタヴェッキアには、彼の銅像が立ち、
日本聖殉教者教会(Chiesa dei Santi Martiri Giapponesi)の壁画には肖像も残されています。
日本とイタリアを結んだ最初の出会いは、カトリックという宗教がもたらしたものでした。
天正少年遣欧使節 |
日本とイタリアを結んだ最初の出会いは、カトリックという宗教がもたらしたものでした。
遠い極東の国に辿り着いた宣教師たち、ローマを目指した日本人たち、それぞれの勇気と
苦労は計り知れないものだったでしょう。
いずれにしても、想像をはるかに超える異文化の中で、それを受け入れる力があったことが
驚きです。
その後のキリスト教禁止、そして鎖国へと向かう時代のうねりに翻弄され、それぞれの人生は
その後のキリスト教禁止、そして鎖国へと向かう時代のうねりに翻弄され、それぞれの人生は
決して幸せな結末を迎えたわけではありません。
悲劇的な結果となった日伊両国最初の出会いは、その後およそ230年間の鎖国によって
隔てられることになります。
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