2012/02/29

日伊友好史(2) - 明治時代・お雇い外国人

戦国時代から江戸時代にかけてカトリック宣教師たちによって結ばれた日本とイタリアの関係は、
長い鎖国を経て、明治維新とともに再び引き寄せられることになりました。
このときは、近代化を図る明治政府の国策によるものでした。

「岩倉使節団」
1871年から約2年間、アメリカ及びヨーロッパ諸国に派遣された使節団のこと。
大使は岩倉具視。木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら明治政府首脳や、留学生を含めた
大規模なものでした。
いわゆる「文明開化」につながる外遊視察で、もちろんイタリアにも立ち寄っています。

その後、明治政府は殖産興業などを目的に、先進技術や学問、社会制度などを導入するため
多くの外国人を招聘・雇用しています。「お雇い外国人」と呼ばれる人々です。

多数を占めたのはイギリス人でした。鉄道敷設や電信技術、海軍整備、建築などの分野で
近代日本の基礎を築きました。
この他、陸軍の近代化や法律分野で貢献したフランス人、医学や地質学などで活躍した
ドイツ人、教師や開拓使に多かったアメリカ人、治水技術のオランダ人などが続きます。
2003年公開のハリウッド映画『ラスト・サムライ』は、この時代背景をモチーフにしていましたね。

近代国家建設に貢献したお雇い外国人のなかで、明治維新と同時期の1861年に国家統一を
果たしたイタリア人も、実は大きな足跡を残しているのです。
それは、主に絵画や彫刻の分野でした。

エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone / 1833-1898)
版画家・画家。ジェノヴァ近郊アレンツァーノ出身。
1875年に来日。大蔵省紙幣局で銅版印刷を指導し、紙幣、郵便切手、印紙、国債、銀行券、
証券など多くの版を彫っています。
画家としても多くの肖像画を残していて、明治天皇の御真影は誰もが一度は目にしたことが
ある有名なもの。他にも西郷隆盛や大村益次郎らを描いています。
日本で生涯を全うし、東京・青山霊園に葬られました。
政府から受けた莫大な収入を、日本の美術工芸品の収集に充て、これら貴重な収集品は
現在、ジェノヴァのキヨッソーネ東洋美術館(Museo d'Arte Orientale)に収蔵されています。

Edoardo Chiossone

1876年には工部大学校の付属機関として工部美術学校が設立され、ここにイタリア人たちが
招聘され来日しました。西洋美術教育の場として画学科と彫刻科の二科が設置されています。

フォンタネージ(Antonio Fontanesi / 1818-1882)
画家。レッジョ・エミリア出身。
工部美術学校・画学科を担当。西洋画を指導し、多大な影響を残しました。

ラグーザ(Vincenzo Ragusa / 1841-1927)
彫刻家。シチリア島パレルモ近郊出身。
工部美術学校・彫刻科を担当。日本人女性画家と結婚しています。

カペレッティ(Giovanni Vincenzo Cappelletti / 1843-1887)
工部美術学校の図学教師であり、工部大学校の建築科にも携わったとされています。
その後工部省に奉職し、ルネッサンス様式の参謀本部庁舎(永田町)や、ロマネスク様式の
遊就館(九段)などを設計。

例えば、2010年からサッカー日本代表を指揮するアルベルト・ザッケローニ監督は、
“現代のお雇い外国人”として、最も有名なイタリア人だと言えるかもしれませんね。
そう考えると、明治時代の彼らの位置づけも身近に感じられるのではないでしょうか。
このときに、イタリア人の美意識が私たち日本人の心に刻まれたのでしょう。

Vincenzo Ragusa

しかし、イタリア人たちが活躍した時期はわずかなものでした。
その後の帝国主義から第二次世界大戦敗戦後の高度経済成長期まで、主に英米社会を
発展モデルにしていったことで、日本とイタリアの関係は再び遠ざかることになってしまいます。

日独伊三国同盟で一時的な軍事関係はあったものの、イタリア文化やイタリア社会の価値観が
広く日本に受け入れられるようになったのは、バブル経済期の1980年代以降のこと。
日本が経済的に豊かになったとき、ようやくイタリアの魅力的な文化に目を向ける余裕が
生まれたのでしょう。

歴史上、日本とイタリアの関係が接近したのは、戦国末期と明治維新だけでしたが、
現在ではそれ以上に親密な二国間関係となっています。
お互い長い歴史を誇る国ですから、それぞれの文化を知ろうとする機運は近年急速に高まって
いるように思います。まだまだ知らない両国の魅力をよりいっそう理解し合えるよう、
現代の私たちにできることはきっとたくさんあるはずです。


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日伊友好史(1) - 戦国時代・カトリック宣教師

2012/02/25

日伊友好史(1) - 戦国時代・カトリック宣教師

記録に残されている歴史上、最初に日本に上陸したヨーロッパ人はポルトガル人でした。
1543年の種子島への漂着は、特に鉄砲伝来という歴史上重要な出来事とともに、学校でも
習いましたね。

しかしこれは、それ以前にヨーロッパ人が日本に来なかったという証拠ではありません。
実際、昔話などの民間伝承で語られる「赤鬼」は、外見上どう見てもヨーロッパ人にしか見えず、
日本列島に漂流して生き抜いていくしかなかった彼らが、人々に怖れられ疎まれながら
隠れ住んだことを思うと、どんなに辛かったか不憫でなりません。
また、浦島太郎が語った竜宮城は、外国への漂流から生還した漁師の、誰も信じてくれなかった
おとぎ話、のようにも思えます。

主に室町時代のこうした民間伝承が単に記録に残す手段のなかった事実だとすれば、
権力者が鉄砲伝来を記録したポルトガル人の種子島漂着よりも100年以上も前に、
名も無いヨーロッパ人が度々漂着していたとしても、まったく不思議ではありませんよね?

マルコ・ポーロ(Marco Polo / 1254-1324)が中国に渡った前後、同様に多くのヨーロッパ人が
中国で活動していることからも、鎌倉・室町時代に日本への航海を試みた人物がいたとしても
おかしくないでしょう。日中間には交易航路も確立していたわけですから…。

マルコ・ポーロはヴェネツィア共和国の商人でした。
24年間の旅を記録した『東方見聞録』の中で、まだ見ぬ日本を「黄金の国・ジパング」として
記しています。
日本を初めてヨーロッパに紹介したのは、実は「イタリア人」だったんですね!

* * * * * * *

さて、話は逸れましたが、この種子島への鉄砲伝来以降、主にポルトガル人やスペイン人が
日本にやってくるようになります。世界では「大航海時代」を迎えていたのです。

日本とイタリアの関係も、ここから始まりました。
当時は統一国家ではなかったため「イタリア人」とは言えませんが、イタリア半島出身の
「イタリア人」たちも続々日本にやってきます。
彼らは主に、日本で布教活動を行ったカトリックの宣教師たちでした。

オルガンティーノ(Organtino Gnecchi Soldi / 1533-1609)
イエズス会員。ブレーシャ近郊カスト出身。
1570年来日。1576年に京都に建立した南蛮寺を拠点に過ごし、織田信長の厚遇を受け、
キリシタン大名・高山右近との親交がありました。
とても明るい人柄で、日本人に大変人気があったと伝えられています。
陽気で親しみやすい現代のイタリア人に通じるところがあるのでしょう。
後の禁教令や仲間の殉教の悲劇にも立ち会い、ドラマチックな半生すべてを日本に捧げ、
長崎で没しました。

ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano / 1539-1606)
イエズス会員。現在のアブルッツォ州キエーティ出身。
1579年来日。日本人の資質を高く評価し、各地に日本人司祭育成のための教育施設を
充実させました。またその一環として日本で初めて活版印刷を導入し、「キリシタン版」と
呼ばれる印刷物も多数刊行しています。
最大の功績は、天正少年遣欧使節をローマに送ったことでしょう。
日本とインドの間で、使節団の出発と帰国に付き添いました。

ヴァリニャーノは、狩野永徳作とされる安土城下を描いた屏風を織田信長から贈られています。
それを教皇グレゴリウス13世に献上しましたが、現在まで行方不明のまま…。
謎の多い安土城下を解明する決め手として、歴史学者たちが捜し求めているものでもあります。
また、彼の黒人従者が、織田信長に「弥助」と名づけられ召し抱えられた逸話も有名ですね。

ニッコロ(Giovanni Niccolo / 1562-1626)
イエズス会員。ナポリ出身。
1583年来日。宣教師と同時に画家でもあった彼は、西洋絵画の技術を伝えました。
非常にリアリティある、織田信長の肖像画が特に有名です。

織田信長・肖像画(ニッコロ作)

こうした宣教師たちに導かれ、このとき日本人もヨーロッパに渡っています。

「天正少年遣欧使節」
先述のヴァリニャーノが計画し、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠ら九州のキリシタン大名が
ローマに派遣した使節のこと。日本初の遣欧使節団で、8年間の長旅になりました。
伊東マンショ、千々石ミゲルを正使、中浦ジュリアン、原マルチノを副使として、1582年長崎を
出港。インドのゴアを経てポルトガル・リスボン到着。スペイン各地を周り、イタリア半島に上陸。

イタリアでは多くの都市を訪れていることに驚きます。
まず船でリヴォルノ港に上陸し、ピサ、フィレンツェ、シエナ、ローマ、アッシジ、ロレート、イモラ、
ボローニャ、フェッラーラ、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴィチェンツァ、マントヴァ、ミラノを経て、
ジェノヴァ港からスペイン・バルセロナに渡っています。
ローマでは教皇グレゴリウス13世に謁見してローマ市民権を与えられ、続く教皇シクストゥス5世
の戴冠式にも出席。他の都市でも大きな歓迎を受けたといいます。

「慶長遣欧使節」
仙台藩主・伊達政宗が、家臣・支倉常長を派遣した使節のこと。
スペイン人のフランシスコ会宣教師、ルイス・ソテロが付き添いました。
1613年、石巻の月ノ浦を出港。中央アメリカを経由してスペインに到着。
1615年、ローマで教皇パウルス5世に謁見しています。
支倉常長が上陸したローマの外港・チヴィタヴェッキアには、彼の銅像が立ち、
日本聖殉教者教会(Chiesa dei Santi Martiri Giapponesi)の壁画には肖像も残されています。

天正少年遣欧使節

日本とイタリアを結んだ最初の出会いは、カトリックという宗教がもたらしたものでした。
遠い極東の国に辿り着いた宣教師たち、ローマを目指した日本人たち、それぞれの勇気と
苦労は計り知れないものだったでしょう。
いずれにしても、想像をはるかに超える異文化の中で、それを受け入れる力があったことが
驚きです。

その後のキリスト教禁止、そして鎖国へと向かう時代のうねりに翻弄され、それぞれの人生は
決して幸せな結末を迎えたわけではありません。
悲劇的な結果となった日伊両国最初の出会いは、その後およそ230年間の鎖国によって
隔てられることになります。
 


2012/02/11

恋人たちのチョコラータ

今年もバレンタインデーが近づいてきました。
チョコレートを準備する方も多いでしょう。

さりげないチョコレートの贈り方として、イタリアンバールに誘ってホット・チョコレートを
ごちそうしてみるなんて、どうでしょうか?
心も身体も温まり、あなたの愛情も恋人にきっと伝わるはずですよ!


もちろん本場イタリアのバールでも、必ず置いてある定番メニューで、大人から子供まで
みんな大好き!
イタリア語でホット・チョコレートはチョコラータ・カルダ(Cioccolata Calda)、または単に
チョコラータといいます。
ホイップ・クリームをのせた、チョコラータ・コン・パンナ(Cioccolata con Panna)も大人気!

「チョコラテリア」(Cioccolateria)の看板を掲げるバールでは、様々な風味のチョコラータを
選ぶこともできます。
ヘーゼルナッツ、アーモンド、ピスタチオ、ココナッツ、オレンジ、ストロベリー、洋ナシ、
バナナ、シナモンなど種類は多く、チョコレートの濃度を選べるところも…。
ウィスキーやブランデー、ラムなどを加えてもらっても美味しいですよ。

欧米で広く飲まれるホット・チョコレートですが、イタリアのチョコラータはドロッととろける
濃厚な口当たりが特徴。「飲む」というより、ティースプーンですくって「食べる」と言った方が
いいかもしれません。

この「とろみ」をつけるのは、バリスタの腕が問われる難度の高い技術です。
ほとんどのバールでは、チョコレートや砂糖、粉末乳などが入っているパウダーがすでに
準備されています。
そこにミルクを加え、エスプレッソ・マシンの蒸気ノズルを使って一気に沸騰させるのですが、
その微妙な分量の違いや、混ぜ方、温め方で、出来上がりが大きく変わり、特に気泡を残さず
上手に作れるバリスタは実のところ数少ないといえるでしょう。

その難しさや手間を省くために、出来上がったチョコラータを専用のマシンに入れて置いて
あるバールも多いですよ。常に撹拌され、適温に保たれているので、下手なバリスタによる
失敗がないのが利点です。

チョコラータには、クッキーやビスケットを浸して食べるのがイタリア流。
チュロスを浸すスペイン文化に近いですね。
私は、イタリアの朝食の定番・ブリオッシュ(クロワッサン)を浸してしまいます!

ミルクが苦手な方は、パウダーに水を混ぜても作れるので、バリスタに尋ねてみてください。
私もバリスタとして、このリクエストは結構受けますよ!軽めに飲みたい方にもオススメです。

面白いのは、夏場はメニューから姿を消すこと。
イタリア人はまず飲まないので、完全な季節メニューです。
他の欧米人や日本人が訪れる観光客向けのバールには置いてあるところもありますが、
真夏にホット・チョコレートを飲む姿は、イタリア人には特異に映ります。
真冬に身体を温めてくれる美味しさが、格別であることだけは確かです。

バールで使われているような粉末タイプのものは、家庭用としても市販されていますが、
とろみをつけるのはなかなか難しいといえます。
ここはぜひ、バールに立ち寄ってみてください。冷たい冬の街歩きも、きっと華やかに
楽しくなることでしょう!


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聖ヴァレンティーノの日
トリノ名物・ビチェリン


2012/02/10

トリノ名物・ビチェリン

イタリア北部の町・トリノといえば、皆さんはどんなイメージを持っているでしょうか?

隣国フランス文化の色濃い、文化都市。
リソルジメントを主導し、統一イタリア最初の首都となったサヴォイア王家の、宮廷都市。
イタリア最大の自動車メーカー・フィアット(FIAT)を擁する、工業都市。
名門サッカーチーム・ユヴェントスや冬季五輪開催に代表される、スポーツ都市。
野趣あふれるピエモンテ料理やイタリア随一のワインを生産する、グルメ都市。

そして実はもうひとつ、コーヒーやお菓子、チョコレートに代表される、バール都市でもあるのです。
フランス風の優雅なカフェテリアが多いのが特徴ですね。
ガンベロ・ロッソの格付けガイドブック『バール・ディタリア』(Bar d'Italia)でも、トリノのバールが
軒並み最高評価を受けていて、バール文化の質の高さがよくわかります。


有名なトリノのチョコレートの中でも、私のお気に入りはジャンドゥイオット(Gianduiotto)。
ジャンドゥイア(Gianduia)と呼ばれるヘーゼルナッツ・クリームを使用したチョコレートソースを、
一口サイズのお菓子にしたものです。
口の中で自然にとろけるほど軟らかく、甘さと香ばしさが何ともいえません…。
19世紀半ばに考案された、歴史あるお菓子です。

厳しい冬を迎えるアルプス山麓の町・トリノでは、もちろんホット・チョコレート(イタリア語で
チョコラータ)は、どのバールでも大人気です。
熱々のチョコラータを撹拌しながら保温する専用マシンが、カウンターの上に置いてあり、
その消費量の多さがうかがえます。

しかし、みんなが飲むのはチョコラータだけとは限りません。
チョコラータを使った「ビチェリン」というトリノ名物のコーヒーがあるのです。

「ビチェリン」(Bicerin)とは、「小さなグラス」(Bicchierino)という意味のトリノ方言。
小さなグラスに、チョコラータ、エスプレッソ、フォームドミルクが3層になるように注がれた、
ホットドリンクです。
19世紀のサロンやカフェテリアで広まったという上品さと濃厚な味は、やみつきになりますよ!

チョコレートやチョコラータが好きな方は、ぜひトリノのバールを訪れてみてください!
伝統的なカフェテリアに腰掛けて、華やかな時代のトリノを感じてみるのもいいかもしれません。

il bar storico torinese "AL BICERIN"

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リソルジメントとイタリア統一150周年


2012/02/08

バールで祝う誕生日!


先週、かつて住んでいたトスカーナ州の田舎のバールを久々に訪れたとき、カウンターで
こんなメッセージを見つけました!

“チェーザレが76歳誕生日にあなた方を招待!彼の末長い健康を祝して乾杯!”

私の友人・チェーザレ本人が自分の誕生日を祝い、バールを訪れるすべての人々に
振る舞うため、ボトルを置いていったのです。
彼の誕生日についてちょうど話していたところで、とても嬉しくなりました!

イタリアのバールでは(特に、気取らない田舎のバールでは)、自身の誕生日の機会に、
こうしてボトルを置いて町の人たちに振る舞う、何ともステキな習慣があります。
バールが地域に根差している証のようなもので、こうして彼の長寿をみんな祝うのです!
誕生日を迎える人の、粋な祝い方だと思いませんか…?

彼が置いていったのは、健康にも良いとされるイタリアの薬用酒、「ラバルバロ・ズッカ」。
バールで本人と会うことはできませんでしたが、さっそく彼の長寿を願って一杯いただきました!
イタリア語で…「サルーテ!」。
誕生日おめでとう、チェーザレ!乾杯!


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イタリアの薬用酒・アマーロ


2012/02/06

リグーリア郷土料理づくし

友人のお母様の誕生日会に招待され、リグーリア州・ジェノヴァに行ってきました。
この日は家族全員が集まり、同行したピサ在住の友人とともに、昼食会に向かいました。

訪れたお店は、オステリア「ダ・ドゥリン」。
ジェノヴァから海岸沿いに東に向かったソーリという町にあり、さらに車で山道を登った先の
カプレーノ地区に、そのお店はありました。

イタリア・スローフード協会発行の『Osterie d'Italia』にも載っている、地元では有名な一軒。
創業1927年の老舗で、メニューはリグーリアの伝統的な郷土料理のみ、というこだわり。
大きなガラス窓に囲まれた店内には眩しい陽光が射し、そこからは冠雪の山々を見渡せ、
眼下には雄大なリグーリア海が広がっていました。

この日、クラシカルな郷土料理が食べられるとあって、私は少々興奮していました。
山奥の一軒というロケーションが、確かな期待を抱かせます。
私の好奇心を察した主催の友人が、注文を仕切ってくれました。

* * * * * * *

まずはアンティ・パスト(前菜)。
出てきたのは、「クレシェンツァ・チーズのフォカッチーナ」。
揚げてあるのが最大の特徴で、パリパリッと音を立てるくらい香ばしい薄い生地の中から、
熱々の甘いクレシェンツァがとろけ出します。
ジェノヴァの厚いフォカッチャとはまったく異なり、レッコのチーズ・フォカッチャのようでも
ありますが、揚げてあるので食感は違います。

Focaccina al formaggio

続いてプリーモ・ピアット(第一の皿)。
ここでは友人が2種類のパスタをとってくれました。

まずは定番中の定番、「ジェノヴァ風ペーストのトロフィエ」。
手でよじった形のトロフィエは、代表的なリグーリアのパスタ。ここソーリが発祥だとか。
茹でたサヤインゲンとジャガイモをバジルソースに合わせるのが、正統なレシピです。

Trofiette al pesto

パスタのもう一皿は、「パンソーティのクルミソース和え」。
パンソーティ(またはパンソッティ)は、季節の野草や葉菜類を包んだ詰め物パスタ。
伝統的にクルミのクリームソースを合わせますが、この定番レシピが生まれたのは、
友人家族が住むジェノヴァ・ネルヴィ地区のフード・フェスティバルだったそうです。

いずれも手打ちの生パスタで、モチモチとした食感がたまりません。
毎朝仕込むソースのフレッシュでデリケートな風味は、思わず言葉を失う美味しさ…。

Pansoti in salsa di noci

いよいよセコンド・ピアット(第二の皿)です。
ここはみんなの大好物、「肉と野菜のフライ盛り合わせ」(Fritto misto di carni)。
ウサギ肉とアーティチョークが特に気に入りましたが、羊肉は私はいまだに馴染めません…。
珍しいリンゴのフライが、口の中をさっぱりとさせてくれます。
サクサクッと食べられる軽い仕上がりで、旨味をとじ込めた中身の柔らかい食感との
コントラストが絶妙でした。

さらに、私のリクエストで最後に登場したのが、有名なジェノヴァ料理、「チーマ」。
仔牛の胸肉を袋状にあけ、そこにたくさんの具材を詰めてブイヨンで煮込んだもの。
詰め物には、仔牛の肉・内臓の各部位、香味野菜、キノコ、松の実、チーズ、卵などが入り、
冷ましてから薄切りにして食べます。

Cima alla genovese

ドルチェは「リンゴのタルト・ジェラート添え」(Tortino di mele caldo con gelato)でしたが、
私はとても食べきれなかったので、ほんの味見だけ。
温かいタルトは、なめらかな舌触りで上品な甘味が優しく広がります…。
これだけでも来る価値あり!です。

最後にエスプレッソでしめましたが、食事のあいだ飲んでいたのが地元の白ワイン。
リグーリア州で最もポピュラーなヴェルメンティーノ種(Vermentino)のものです。
黄金色が美しく、フルーティで芳醇、かつ力強い味わいで、どの料理にもよく合いました。
お土産に頂いたのが、ピガート種の白ワイン(Riviera Ligure di Ponente Pigato DOC)。
リグーリア料理は、白ワインに合うものが多いですね。

* * * * * * *

イタリアらしい家族経営の、気取らない雰囲気のお店でした。
訊けば、これらの料理をつくったのは、オーナーの母親とのこと。
繊細で完璧な味はシェフとしての腕ですが、そこにマンマの味も加わっていたんですね!
しかも、これだけ食べて飲んで約25ユーロなのですから、ぜひオススメしたい一軒です。


オステリア「ダ・ドゥリン」
Osteria "DA DRIN" / Fraz. Capreno 66 - Sori (GE)
http://www.osteriadrin.it/


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ジェノヴァ名物・フォカッチャ


2012/02/05

ボルゲリ - ブドウ畑の貴族邸

先日、友人から仕事の件で、ある世界的香水ブランドのオーナー(仮にV氏)を紹介されました。
彼はフィレンツェの歴史ある伯爵家の当主で、トスカーナ州各地に土地や邸宅を持つとのこと。

幸運にも、後日そのV氏から別邸でのランチに招待され、先週末友人と一緒に行ってきました。
場所はボルゲリ。
マレンマ地方と呼ばれるトスカーナ州南部の広い海岸地域のなかでも、リヴォルノ県側の
丘陵地にボルゲリはあります。

ローマ起源のイタリアでも最も古い貴族のひとつC家出身の奥様と、3人の小さな子どもたちを
紹介され、温かく迎えられました。
大きな暖炉の前のテーブルに着席し、奥様手作りの料理は高級リストランテ並みの美味しさ!
日本とイタリアの貴族の歴史や、日本文化、イタリア料理、ワインなどについて語り合いました。
窓の外に広がる一面のブドウ畑を眺めながら、心地良い時間に陶酔していました…。


そのブドウ畑。
山から海岸まで続くV氏の広大な所有地に、どこまでも広がっています。
ワインに詳しい方なら、ピンときたのではないでしょうか。
ボルゲリのブドウ畑…。そう、超高級ワイン「スーパー・タスカン」を生むブドウなのです!

スーパー・タスカン(Super Tuscan)とは、それまでの伝統的なワイン造りとはまったく異なる
手法で1970年代に登場した、革新的なイタリアワインのこと。

1968年に販売されたボルゲリ・サッシカイア(Bolgheri Sassicaia)が、その先駆けです。
マリオ・インチーザ・デッラ・ロッケッタ侯爵が、サン・グイド農園(Tenuta San Guido)に植えた
カベルネ・ソーヴィニヨンとカベルネ・フランを使い、この歴史的な一本が生まれました。
30年もの熟成に耐える、力強い味が特徴です。

ワイン法で定められたカテゴリーの中でも、スーパー・タスカンはDOCやDOCGではなく、
規制の緩いテーブルワイン(VdT / Vino da Tavola)のクラスで、自由な発想で造られるのが
特徴です。
しかし、こうしてDOCを超える高品質なワインが出現するようになったことで、生産地表示など
を義務付けた地域限定テーブルワイン(IGT / Indicazione Geografica Tipica)が新設されます。
現在ではトスカーナ州に限らず、他州でも優れた革新的ワインが無数に造られているため、
「スーパーIGT」と総称することもあります。

その中で、ボルゲリ・サッシカイアは1992年、DOCに昇格しました。
同じカベルネ・ソーヴィニヨン主体の「ボルゲリ・ロッソ」と「ボルゲリ・ロッソ・スーペリオーレ」も
DOCに認定されています。

同じフィレンツェ貴族のアンティノーリ家(Antinori)の手掛けた「ティニャネッロ」、「ソライア」も、
ピエモンテ州の「バローロ」、ヴェネト州の「アマローネ」、トスカーナ州の「ブルネッロ・ディ・
モンタルチーノ」などの伝統的ワインと並んで、イタリアの最高級ワインに数えることができます。

オルネッライア農園(Tenuta dell'Ornellaia)の「オルネッライア」や、メルロー100%の「マッセート」も
有名ですね。

最後に、その他のスーパー・タスカンの赤ワインをいくつか挙げておきましょう。
トスカーナの伝統的な赤ワイン用品種・サンジョヴェーゼや、カベルネ・ソーヴィニヨン、
メルロー、シラーなどの外国品種を主に使用しています。

Luce (Frescobaldi)
Casalferro (Barone Ricasoli - Brolio)
Cabreo il Borgo (Tenute del Cabreo)
Camartina (Quarciabella)
Solengo (Argiano)
Modus (Ruffino)
Summus (Castello Banfi)


ランチを終えた我々は、みんなで海岸を散歩しました。
3人の子どもたちと、流木と松ぼっくりで野球をしたり、砂浜にひいた土俵で相撲をとったり…。
すっかり日も暮れ、車で邸宅に戻る敷地内の森のなか、野生の鹿や野ウサギを目撃しました。

これまで出会ったイタリア人の中で、おそらく最も知性と品格を備えたV氏夫妻のもと、
幼いにも関わらず高い教養を身につけている子どもたちの、恵まれた環境が印象的でした。

この日、いずれ名門貴族の当主を継ぐであろう長男から、自作のヌンチャクをもらいました。
大切に部屋に置いてありますが、いつか彼とこのヌンチャクを手にとって笑いながら、
スーパー・タスカン・ワインを飲み交わす日が来るのでしょうか…。


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干しブドウの一級ワイン